話す親になる(0) -幼児教育って…?-

2015年の春、転職活動をしていた最中で、そのうちの一つに教育業界があった。その当時は、子どもが生まれるとも思っていなかったので、幼児教育はビジネスとしてどんな可能性があるんだろうか、そもそもどういう状況なのだろうかと思って、買った。

ノーベル経済学賞を受賞した学者が幼児教育を分析する、その経歴と研究対象のギャップも印象深かったのが、最終的な決め手だったことを覚えている。同じタイミングに出版された『学力の経済学』は本屋で平積みにされており、その脇で窮屈そうに並んでいた(本屋では手に取らず、KINDLEで買った)。ちなみに、この2冊アマゾンのレビュー数は約9倍の差(前者が28、後者が250弱}がある。


蓄積されたエビデンスから、言える範囲のことを述べている誠実な本で、その誠実さゆえに、親がすぐに活用できるような具体的な打ち手については書かれていない。ストレートなタイトルとは裏腹に、落ち着いた内容だった。本自体のページ数も少なくてお得感が少ないのが低評価の理由の一つではないかと推測する。

そして、2017年5月末日、本書を手に取ってから、約2年後に私たち夫婦は子どもを授かることができた。そして、生まれる1ヶ月ほど前から、遠い昔の記憶を思い出し、せっかくだから自分の赤子で、楽しくN=1の科学実験してみようと思い立ったのだ。実験なんて、真剣にやった記憶が人生でないので、ほぼ素人である。今思えば、大学時代に論文指導を真面目に受けれもばよかった、と遅すぎる後悔もしたくなるが、それは脇においておこう。


さて、手始めに、これから、どんなことをやり、どう記録に残していくか、本当にザックリな計画を以下に記して、今日は終わりにしたい。

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同じ職場で働き続けるために住む場所を変えるか、住む場所を変えないために働き方を変えるか

会社はライフステージの変化によって、多様な働き方を提示してくれるわけではない。仕事の種類や生産性を考えたときに、多様な働き方を提示しないほうがメリットが大きい会社がほとんどである。多様な働き方という贅沢は、ポータビリティが高く、仕事における付加価値が高く、希少性がある職種に限られるのか、この記事を書き始めるまでに、頭にあった考えはここまでだ。

そこに、子育てという要素を加えると、問題は違ってみえる。働き方と子育てという次元の異なる課題が交わり合う領域では、保育園入れない問題と女性活躍推進が居心地悪く、共存している。そして。それは少子化と生産性という大きすぎる問題へとつながっていく。

子どもを生むと子育て以外の厄介事である保育園探しがあると、都心に住む共働きの若い世代の頭にはニュースや日々の会話で刷り込まれているだろう。子どもが生まれて幸せなのに、子どもが生まれて自分の住んでいるところで働きながら育てたいのに、できない。女性活躍推進だと、子どもを持つ母が働きやすい環境を創ろうとしているのは、人気集めだけの口だけの政策のように聞こえるし、そもそも誰も女性活躍なんて実は期待していないんだと思ってしまう。イクメン推進などは、一時的な助けにはなれど、焼け石に水とも言える。とにかく、妊娠中から入れるかどうかわからない保育園のことに悩まなければいけない状況は、少子化対策にとっても不健全であるように感じる。データはないのであるが。

働くため、保育園に入れるために住む場所を変えるというのは、仕事を続けるための一個人の努力や工夫になる。今のところ、住む場所は働き続けることと比較すると、優先順位が低くなっている。働くために住み慣れた地域を離れ、保育園の空きのある地域に引っ越しを余儀なくされるのは、あまりにも不毛である。根無し草の地方出身者は、そのぶん身軽である。有利な条件を求めてすすんで引越しをする。したいかどうかは別にして、働くために切実な問題なのだ。

自治体にとっては、子育てに優しいうのは街を目指す意気込みだが、どんなに優しい町を目指して、保育園を増やしても、保育園を求めて移住者が急激に殺到してしまえば、そのイメージは一瞬で覆る。それに子供の出生数や転居数は(たぶん)コントロールできない。個人は自分たちの子供が保育園に入れるかどうかで、生活が大きく変わる。だから、保育園入園問題に対しては急に利己的になり、ホモエコノミクスとして、インセンティブに反応する。だからこそ、個人は群れをなすように噂を聞きつけては、移動を行う。

働き手が移動することで、保育園入園市場が調整されているとするならば、いつでもどこでも引越しする前提ならば、ある程度は保育園問題が緩和されるのだろう。しかし、住む場所を変えるつもりがない人は、急に人が殺到して、入れたかもしれないけど保育園に入れなくなる状況が生じる。ずっと同じ土地で地に足をつけて暮らす、暮らそうとする人たちにはその行動によりやりきれない思いをする可能性が常にある。今の日本では、住む場所の自由がある。そして、ずっと住んでいる人たちへの優遇措置はない、携帯キャリアのような制度があったらいいのにと思う。居住期間を法律で強制することできない。

話はそれるが、昔、大学入試でも似たような問題があった。子供の数は予測できていたが、大学進学率の急激な高まりに、大学側の定員に対して、入学希望者数が大幅に上回った。予備校が何もせずとも大儲けできた時代だ。当時の大学を、今の東京23区に住むことに置き換えればわかりやすい。大学じゃなくてもいいのに、大学に行くのと、23区じゃなくても生きていけるのに、23区に居続けたいのと。都市の魅力には抗えない。みんな住みたいから、競争になる。

では、働き方を変えれば解決するのか、といえば、そんなに優しくはない。むしろ、保育園の入園条件は企業勤めの共働き優位である。ただでさえ不安定かつ不規則なフリーランス、子育てとの両立ができるような職種であればよいが、そうでなければ時間的な余裕が少なくなる。働き方改革と叫ばれているが、それは残業を減らすというだけで、あくまでも会社で働いていることが前提となっている。こういうとき、法制度におけるデフォルトとして設定されている家族像や労働者像の古さに嫌気がさす。デフォルトに多様性をもたせることができれば、もっと変わるんじゃないかと期待する一方で、そんなことで一貫したルールが設計できるのか、と国家の代わりに自問自答し、答えの出ない迷宮に迷い込んでしまう。

とはいえ、子どもの数はマクロに見ると減少していく。すでに現在の0歳児は100万人を切っており、現時点での18歳人口の8割程度である。保育園入れない問題というのは、実はすごくニッチな問題だけれど、政府の政策を批判するには、ちょうどいい話題なだけかもしれない。少子化対策は急務であるとされているなかでの、政府の空回っている感が、その事実だけで国民の印象に残る。火事場の馬鹿力で、保育園だって入園希望者数にあわせて増加させても、長期的には子どもの数は減り、需要は衰退する。首都圏はしばらくそんなことはないだろうが。前例であげた大学の状況と相似していて、次は長期的展望がないまま、保育園を増加させたと批判される対象になるかもしれない。

話がどんどんと逸れていき、回収もできる見込みもない。保育園のために引越しする引越ししない、子育てのために働き方を変える変えない、というのは遠い問題のようで、いつかは自分に襲ってくる問題である、都心に住み続けていれば、空きを求めて移住する人たちがいる以上、いつ自分のエリアにやってくるかわからない。それはルーレットのようなものである。

しかし、引越しをすること、しないこと共にリスクがある。働き方、働く場所、職能を変えることも同様である。子どもが生まれるという喜ばしいことの裏側で、働くことと住むことの選択を同時に迫られる。本当に厄介なことである。

お茶という交換価値の終着点2

ギフト市場におけるお茶がなぜ存在感があるのかを考えてきたが、ここからはなぜお茶が交換価値の終着点になるのか、 に話を進めていく。

結論から言うと、溜まって、飲みきれず、またはそもそも飲む習慣がなく、腐って、ゴミとなるからである。

勝手な想像でしかないが、年間に生産されるお茶の量は、人が1日2杯を飲んだとしても、十分に余りある生産量なのではないかと推測している。

そして、ギフトとして贈られたお茶はその余分な量の大半を占めるのではないかと思う。

お茶が毎日の習慣であり、好みである場合、お茶は来客用で、そんなに飲まない場合、そもそも嗜む習慣がまったくない場合、そんな場合わけは考慮されずに贈られるのがお茶である。

そして、日常的に消費している好みのお茶ではないものがたいていは贈られる。高ければいい、質がよければいい、というわけでもない。毎日繰り返し同じものを飲む安心感、定位置感をお茶に人は求めている、たぶん。

購買活動を変えるようなお茶はなかなか存在しない、だってギフトだから、日常的に買うには高すぎる。お茶に日々の彩りや冒険を求めている人は少数で、定位置感を求めている人が大半で、お茶にそんなものを求めない人もまたたくさんいる。

贈り物としては抜群の使い勝手を持ち、贈る側も贈られる側もその瞬間は悪い気はしないお茶。これが、気がつけば、キッチンの収納を物理的に支配するタンス預金となり、賞味期限や収納の限界により年末年始の大掃除で、未開封のまま、あえなくお役御免となる。

そして、ギフトとしての役目は無事に果たし、消費財としての役目は果たされぬまま、商品としての運命を終えるのである。

交換価値は高いのであるが、使用価値に転換されないまま、贈られた時点が終着地点になる哀しさをお茶に見るのである。

おわり

p.s.マルクス経済学のことを理解して、交換価値と使用価値という言葉を使っているわけではありません、ごめんなさい。

お茶という交換価値の終着点1

手短なギフトの定番として、お茶という嗜好品がある。

とりわけ、紅茶が、ここ日本では人気である。特に女子の間で流通していることが多い。

そして、ギフトとして受け取ったものは表立って、何かと交換しずらいものである。そして、再び流動性の高い現金には変換が難しい消費財である。

もちろん、そんな高価なものではなく、気遣いの気持ちを伝えるものである。しかし、親に限っては送ってこないものだ。友達同士では贈るのもはばかられる実用的なものを送ってくれる。そちらのほうが日常の生活においてはありがたいものだ。なぜ、親は紅茶を送ってこないのか、他の人からの贈り物で、お茶に埋もれていることを知っているからだ、少なくとも、うちの親は。

お茶はあくまでも嗜好品であり、好き嫌いがある。しかし、なぜここまで贈り物として定番のポジションを築いているのだろうか。仮説らしきものを考えてみた。

まず関係性としてかなり親密でもない限り、友人の生活パターンは知らない。また、ギフトで送れるようなものの好き嫌いを知っていることは意外と少ない。だから、まずギフトの選択の際に、優先順位が高いのは、

1.議論を呼ばないもの
2.余計な説明が必要がないもの
3.相手に自分を変と思われない(できれば趣味がいいと思われる)もの

となる。

そして、次に贈る側として期待値を持っているのは、

1.使ってほしい
2.さらには役に立ってほしい
3.できれば邪魔になってはほしくない

である。

そう考えていくと、紅茶というギフト、紅茶を贈ることは、どの要件も満たすことになるのである。他に類似したものでいけば、調味料、グラスなどである。

その中でも、紅茶は特別感がある。贈る相手へ、以下のような暗黙のメッセージが含むからだ。

紅茶を昼下がりに飲むような生活の余裕があるとあなたのことを考えていますよ
紅茶のような嗜好品を理解できる趣味の良さがある人と私は認識してますよ

さらに紅茶には、カフェインレスや土地柄といった気配り要因、差別化要因を簡単に付与することができる。

続く、たぶん。次は、なぜそんな紅茶が交換価値の終着点になるか、について。

ソースは御茶ノ水の病院の待合室のふとした会話から

ヒーロー1 ー荒川修作ー

正座して聞きたい。
荒川修作の東京芸大での講演。
内容も、話し方も、受け答えも、あまりにもかっこよすぎる。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20779727

モノサシ

自分のものさし
人にあてない
自分にあてる

人がものさしを
あててくるときにだけ
振りかざす必殺技

ルールという縁の線上で

どう評価されるか
どっちに転ぶか

線を引いた人
線があると思い込んだ人

線は太くなるのか
線は消えるのか

線に怯える戦
線を引き直す戦

切片と変化量 スナップショットと接続性 破壊的イノベーションと持続的イノベーション