旅行中に考えた10年前のこと。そして、いま。

高校を卒業したのが10年前の2002年。あのころ、思い描いていた未来はいま、ここにあるんだろうか。そんなことを旅先で考えていた。僕はいま、ここにいます。それは当り前のことでいま、ここにいる。だけど、10年前はいま、ここにいることを考えてもいなかった。

10年前、僕は17歳だった。甲子園を目指した暑い夏と思い出の体育祭が終わり、受験勉強の真っ只中だった。そんなとき、セカイには激震が走っていた。911。しかし、地方のしがない都市では、それは笑いのネタであった。そんな記憶の片隅に残っている一枚の学生証。それは912、通っていた塾での出来事。学生証の写真が今や世界的な有名人になったオサマ・ビンラディンにすり替わっていた。みんな大爆笑。あの事件がいったい何なのかわからずに通り過ぎた高校時代。実感も違和感すらも感じ得なかった。今や巷で語られる911は僕にとってはただの日常のニュースでしかなかった。田舎の地方都市の高校生には持ち得ない世界感覚。正義や大義がどうだとか、そんなことよりもお粗末な受験勉強に励む。あれ、そういや学生証を見せてくれた奴、自殺したってな。

未来は予測できないだなんで誰かがいっていた。
未来は自ら創り出すものだと誰がが言っていた。(この誰かはきっとアラン・ケイだ)
未来は今の延長にあって、だけど、それは10年もの時を経てみればまったく違った景色にみえる。

操縦室に突入し、ハンドルを奪い取ったアルカイダのメンバー。彼らはセカイをどうみていたんだろう。不均衡と富の矛盾に苛まれていたのだろうか。忠誠心、純粋主義、原理主義、真っ直ぐすぎる想いは、純度が高すぎる想いは、危険すぎる。しかし、一つのコトに矛盾なくよりすがりたい気持ちはわからないでもない、そういったモロさをヒトは誰もが抱えている。彼らもきっと10年前はそんなことをやるだなんて考えていなかったはずだ。

ちょうど半分の5年前、僕はサハラ砂漠でひとり、石を並べて遊んでいた。並べていた文字は写真に撮ったので、今も覚えている。

「起業」
「Love&Peace」

並べた石の一つ「起業」はどうやら成し遂げたようだ。起業するなんて、今思えば、大したことではない。やればできる。やったあと、どうするかが問題だ。資本主義社会は待ったなしだ。

この5年はJohn Lennonに憧れていたし、今も好きだ。
この3年はBob Dylanにもディランに憧れている。
この2年はガンジーにも憧れている。
要するに、アウトローで愛と平和があれば、世界は変わると考えているような異人に憧れを抱く傾向にあるわけだ。もう一つの石の並びはただの憧れに昇華されている。

目標をもつことに意味があると教えられ、信じてきたこの10年間。いやはや、本当にそう思う面とそれは違うなと思う面。全部達成するには、執着心が必要だ。自己認識では、僕はその感情が弱い。目標は誰かと共有するのもで、みんなのもので、一人だけの目標じゃつまらないし、執着できない。一人じゃ何にもできないことを知った。

一人なら、利害に塗れ、しがらみの中もがき苦しんでいるほうが小幸せかもしれない。一人の力では、限度がある。

そして今、瞬間的な思考はそう言っている。

あきらめにも近い感情。ギリギリのところで目に見えない敵と戦っている。

そして、頭に流れる「tommorow never knows」

「誰かのために生きてみても、tommorow never knows」と言ってはいるが、できることなら、自分のために生きていることが、誰かのためになっていてほしいと感傷的になった旅の終わりごろ。