松井秀喜選手との思い出(1)

「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」

(松井秀喜 1992年)

1992年、松井秀喜の巨人入団時の会見である。僕は松井が通った浜小学校の3年生だった。誕生日プレゼントでもらったミズノの左利き用グローブと西武ライオンズの帽子をかぶり、家の前でキャッチボールをしていた。しかし、当時は、小学校入学前から続けていたスイミングに通いつつ、翌年に開幕が控えたJリーグの影響で、僕自身サッカーに関心が移ろいでいた。

しかし、町内にサッカーチームは存在せず、スイミングは辞め、小学校4年の春から根上少年野球クラブに参加することになった。平泳ぎが前に進まないという理由もあって、スイミングが好きになれず、それを辞めたい一心で野球をはじめようと思った記憶、続けたことは中々辞めさせてくれない親への説得材料として利用した記憶もある。

どうであれ、松井のプロ野球1年目がスタートすると同時に、僕も野球をはじめた。松井も所属していたチームで野球ができることは子どもながら、誇らしかった。周囲から見れば、松井の影響と受け取られても仕方がないが、当時の覚えている限りの心境では、それほど影響は受けていなかったと思う。

地域にはサッカーチームはなかったが、スラムダンクの影響もあって、バスケットボールのクラブには人が殺到していた。僕たちの少年野球のチームも同学年に10人以上いたが、最後はたった6人になっていた。野球よりもバスケットボールの方がかっこいいなーと隣の芝生が青く見えていた。1つ上の学年も6人しかおらず、松井秀喜がプロに進んだにも関わらず、人数だけ見れば、お寒い状況だった。

ベットの上の、天井にはバッティングセンターの景品でもらったオリックス時代のイチローのポスターを貼っていた。同じ左打ちで松井のようなホームランを打つパワーはないなーと考え、松井よりもイチローから技術を学ぼうと考えていた。

ホームランバッター松井は一年目、11本のホームランを記録する。一号のホームランカードをもらった記憶がある。今もきっと実家のどこかに保管されているはずだ。

当時、この本の取材で練習中に記者がやってきた思い出がある。キャッチボールをしている練習風景の中にいる自分が、本の中で判別できたことがとてもうれしかった。

入団一年目からオフシーズンの1月4日に開催された町民のつどいには一回目から参加することができ、小学校5年のときには、壇上でゴムボールを使って松井選手にトスしてもらい、バッティング指導してもらったことは、心にずっと残る思い出だった。

Naoki Yamamoto
1983年12月25日 石川県生まれ。野球漬けの高校生活を経て、北海道大学農学部に入学。「スノーボード、旅、読書」の三種の神器に明け暮れる。卒業後、システム会社に営業職で入社。 2009年株式会社グランマを立ち上げ。1年後に発展途上国の貧困層に必要なデザインやサービスを展示する「世界を変えるデザイン展」を六本木で開催、2万人を動員。2014年12月に退職し、現在無職。仕事の傍ら、ノンフィクション書評サイトHONZに参加中。

コメントする