『アイデンティティと暴力、そして経済学』

人を見るときに、どんなアイデンティティで構成されているのか?という視点から見る。

どのような場所で育ち、どのような家族構成を持ち、親の教育方針、育った街の気風やそのときの友達、宗教は持っているのか、学校は公立なのか私立なのか、裕福な家庭に育ったのかまたは余裕のない家庭に育ったのか、部活は?アルバイトは?専門は?何だったのか、仕事は?会社は?役職は?業種は?なんだろうか、政治信条や現在の社会についての考え方は?、、、、とプライベートまで根掘り葉掘り聞きたくなる。

なぜか。そのような話を聞きながら、頭の中でそれぞれの共通点や接続点を探し出し、根底にある一貫性からキャラクターを抽出しようとしている、つまり、表面よりも少しだけメタなところで、その人がどんな人で、この先、どんな意志決定や判断をするのか、を考えている。

その一方でアイデンティティは個人の中に複数以上存在しているけれど、特定のアイデンティティだけを強化して、暴力や対立につながっていくことがある。それをアマルティア・センは『アイデンティティと暴力』という本でまとめている。

アイデンティティは与えられたものではなく、理性によって「選択できる」のだ。

一人の人間がなんら矛盾することなく、アメリカ国民であり、カリブ海域出身で、アフリカ系の祖先をもち、キリスト教徒で、リベラル主義者の女性であって、かつヴェジタリアン、長距離ランナー、歴史家、学校の教師、小説家、フェミニスト、異性愛者、同性愛者の権利の理解者、芝居好き、環境活動家、テニス愛好家、ジャズ・ミュージシャンであり、さらに大宇宙に知的生命が存在し(できれば英語で)緊急に交信する必要があるという考えの信奉者となりうるのである。一人の人間が同時に所属するすべての集合体がそれぞれ、この人物に特定のアイデンティティを与えているのだ。・・・人のアイデンティティが複数あるとすると、時々の状況に応じて、異なる関係や帰属のなかから、相対的に重要なものを選ばざるをえない。

アイデンティティは個人が最終的に選ぶことができる、理性によって。もちろん、生まれた環境で育まざるを得なかったアイデンティティもある。例えば、幼いころから、両親に付き添って宗教施設に通い、選択することなく特定の宗教を信じるようになったとき。

ときどきの状況でアイデンティティの選択を踏み外せば、空気が読めない存在や裏切りもの扱いされることもある。生死の危険を犯してまで変化を求めてアイデンティティを選ぶこともあるだろう。人は、理性でアイデンティティを選択できるほど強い存在ではないという議論もあるだろう。しかし、選択できるという余地が0%ではないことは間違いないと思える。

人をホモ・エコノミクスとして捉え、基礎的な理論を培ってきた経済学は、ここしばらくその前提条件が崩れつつある中で、新たな分野が開拓されつつある。社会的な切り口の一つとして、2001年ノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフが著した『アイデンティティ経済学』がある。ホモ・ルーデンスもいれば、ホモ・ファーベルもホモ・ロクエンスもいると巻がれば、それはそうだ。アイデンティティを取り入れることで、通常の経済学では解説できなかった人々が一見筋の通らない判断を下す理由が見えてくる。

http://econ.duke.edu/people/kranton/identity_economics

経済学の書籍としては評価が分かれる本だと思う。心理的要素を取り入れた行動経済学と対をなす形で、社会的な要素を取り入れた先駆けの1冊として、この先、発展の余地は残されていそうだ。また、周囲とのコミュニケーションから人の行動を規程する要因として、アイデンティティの影響度が大きくなっている実感を持っている。東京で出身地が集まったり、共通のスポーツを楽しむ仲間が、特定のアクティビティ以外でも活動を共にしたり、ノーマルから外れた人たちが非常に強固な繋がりを持っていたり。もちろんアイデンティティだけで説明できる事象ではない。

最後にアイデンティティを刀にして、社会や個人を切り刻んで見ていったその奥に発見した最近の気づき。それは、一億層中流社会という暴力的なアイデンティティ。思い込みと言ったほうがよいかもしれない。日本では中流であるべきだというマインドセットがあまりにも強いと思う。誰もが、そこから外れることを恐れ、そこから足を踏み外すと、そこに回帰しようとする引力が猛然と襲ってくる、それは自分の中に植えつけられた思い込みからと家族を中心とした周囲の期待やアブ・ノーマルな存在や行動に対する好奇の目からだ。

ここは引き続き、探究していきたい。

コメントを残す