[シリーズ]住まいと暮らしかたの実験(小学生から大学生のころを振り返るの巻)

小学生の頃は早く1人部屋が欲しいと、入学後から切に願っていた、それが大人になる階段の一歩目のような気がした。家族の誰も知らない自分だけの世界を創りたかった。

そして念願の1人部屋を手に入れてからは、毎週金曜・土曜の広告チラシを見入る日々が待っていた。自分の部屋にあったらいいなと思う家電製品や家具を飽きずに眺めていた。それだけではない。モデルハウスの案内を手に取り、とくに間取りを見て、1人興奮していた。

中学生になると、思い立ったが吉日、部屋の模様替えを小刻みに行い続けた。どうやったら、最適な環境が作れるか、省スペースの中で、最高の収納を実現できるか?部活が終わってその帰り道に構想して、家ですぐにプロトタイピングする。8畳和室の限られたスペースでブリコラージュし続けた。いつも部屋はプロトタイプ状態でぐちゃぐちゃ、自分でも明日にはどうなるかわからない。学校のテスト中の余った時間(わからなくて)には、間取りを空いたスペースに書いて、あーでもない、こーでもないと考えた。

高校生になって待ち構えていたのは、進路選択。ひとまず建築学科という選択肢を真剣に考えた。他の選択肢は文学部史学科、理学部生物学科、農学部、薬学部。植物に関連する遺伝学やバイオテクノロジーを学ぶこと、史学部で歴史の世界にどっぷりと浸かること、頭を巡らせていた。建築学科は哀しいかな、断念することになった、物理がまったく理解できなかった(特に力学)のである。

もちろん、学問として学べないにしても、大学生になれば一人暮らしができると、イメージを膨らませていた。そして、大学は自宅からは通うことができない北海道に決まり、念願の一人暮らしがスタートした。当時の部屋選びは時間も情報もなくて、間取りのみで選んだ。憧れのロフト付きの1DK。実は大学から遠いところだったので、雪ふる季節に困ることになったのだが。

憧れとはいえ、北海道の冬をなめていた。ロフト構造で屋根が高く窓が大きいので、部屋が暖まりにくく寒い。それには負けず、インテリアはお金がないなりに努力した。ドンキホーテで選んだ赤のソファー、狸小路にあった閉店セールの家具屋で選んだ赤い棚、カッティングシートで味付けしたドア。雑誌を読み、勉強した。オーソドックスとはほど遠いが、突き抜けきれていない中途半端な部屋ができていた。しかし、ソファーがあって、自分で選んだカラーボックスでないお気に入りの棚があり、随所随所に好きな小物がある。それだけで満足だった。人が来てくれると照れはしたが、心の中では「ドヤ!」と思っていた。今、思えば恥ずかしい。

大学の近くに引っ越そうと思った。仲のよい後輩とシェアをしようと不動産を巡り歩いた。2003年当時、シェアはまったく一般的ではなかった。まったく血縁関係のない2人で部屋を借りることに、首を縦に振ってくれる気の良い不動産屋はいなかった。ちなみに、当時の後輩は東京に来て、僕の友人とシェアをした。

当時の北海道では先鋭的すぎて社会的に受容されないシェアハウスを断念し、まったく日光が射さない大学近くの1DK+駐車場に引っ越した。部屋を引っ越すと気分も変わる。記帳となる色は赤から緑へ。光の当たらない部屋を選んだのは昼間は二日酔いで苦しいときしかいないからだ。夜しかいない、眠るときしか使わない部屋に光はいらない、そう思った。2Fの部屋は1Fの駐車場から底冷えする空気のため、冷え込んだ。北海道だから仕方がないレベルではない。

世界に旅立つことになった。部屋を2、3回しか会ったことのない大学の後輩に貸した。引っ越すのが面倒だったし、家賃が惜しかったからだ。所謂又貸しだ。管理人のおばちゃんとは仲良しだったから、その旨を事前に伝えた。約10ヶ月間、その部屋がどのように利用されたかは僕はしらない、あんなことやこんなこともあっただろう。しかし、その当時からバックパック旅行に浸かっていた僕はドミトリー生活の影響から、部屋とはプライベートな空間というよりも、パブリックなスペースという考え方を持ち始めていて、深く考えなかった。尚、そんな彼とそこに入り浸った彼の友達は今、カンボジアで活躍している。そうやって時間差で利用した空間で、出会いは広がっていく。

大学時代の最後は、1月に部屋を解約したため、東京で一緒に暮らしていく予定だったk4maraの部屋で過ごした。NZで3ヶ月過ごした湖のほとりの家、毎冬お世話になったニセコの屋根裏部屋、世界各地のドミトリーや安宿、大学のゼミ部屋、バイト先の仮眠室やホテルの部屋、そして半径2km以内の友人たちの家。どこでも生きていける、そう思えた豊かな暮らしだった。

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