動きを止めると、心が動く

最近、ようやく理解したことの話です。

しっくりこない、というもやもやした感じ、この掴めない感触はいったいなんなのだろうかと。

やっとわかった。

それは、頭で理解していても、心が動いていない、そして体も反応していないって状態だ。

んで、どうしてわかったのか?

勢いを失ったときに、再起動できなかった。もっと詳しくって、そんな野暮ったいことは書いても仕方ないのだけれども、自分のために忘れないための備忘録として書き残すことが、このブログの使命でもあるから、野暮ったくても書くこととする。

さて、詳しくいきますと…
日常は、プロジェクトを進めること、周囲から降ってくるタスクをこなすこと、自分でいつか決めた決まりごとをやることで、一日の大半が終わっていく。だけど、ふとしたきっかけで能動的に自分の行動を止めてみる。これはとても勇気のいる決断だと思う。何かの拍子や病気などで止まることはあっても、自分から止めることはなかなか難しい。人は自分の有能感や自己効力感を感じていたいから、止まりたいわけがない。多くの場合は、止まることも次に動くための休止として、動くこととの連続上にある止まることと言える。

だけど、思い切って、その自分で思い込んでいる「動くと止まる」の因果関係を断ち切ってみる。つまり、次に動くという選択肢を消し去る。ただ、止める。次に動くというアクションは来ないかもしれない。それでも、流れを断ち切る、能動的に止まるために。

そうすると、勢いが見えてくる。最初に、外側の勢い、つまり追い風が見えてくる。その追い風は外部の要因だけではない。内側に起因しているものがほとんどである。外側の勢いを創りだす流れを分析すると、自然に関連する内側の要因が見えてくる。それを内観する。ゆらゆらとイスに揺られながら。

そうして、分かってくる、自分が今、動いている原動力が内側にないことが、外側にもないことが、ただ、自分の内側に残された古い歯車が動き回っているだけということを。それは永久機関とまでは行かないが、日々の習慣、癖のようになって、外側に現れる。その機関は外側と不協和音しているにも関わらず動いている。だから、その不協和音が心を蝕む、まるでガン細胞のように。そして、心のエネルギーは奪われていく。

だから、まずその古い歯車に気がつくことが大切である。相当、深く自分の奥に忍び込んでいるし、その歯車は過去に肯定されたものであり、心と一体化しているから、なかなか気がつかない。心は見えないから、外科手術はできない。だから、動きを止めること。動きを強制的に止めると、心が見えてくる。

そして、心が動く。

つづく(かも)

Naoki Yamamoto
1983年12月25日 石川県生まれ。野球漬けの高校生活を経て、北海道大学農学部に入学。「スノーボード、旅、読書」の三種の神器に明け暮れる。卒業後、システム会社に営業職で入社。 2009年株式会社グランマを立ち上げ。1年後に発展途上国の貧困層に必要なデザインやサービスを展示する「世界を変えるデザイン展」を六本木で開催、2万人を動員。2014年12月に退職し、現在無職。仕事の傍ら、ノンフィクション書評サイトHONZに参加中。