武人と文人の関係と未来 梅棹忠夫『わたしの生きがい論』


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前回では、「生きがい」を中心にしたところを引用していった。今回は、本書の最終章である「武と文」より。1975年に経団連で講演した内容がベースになっている。40年経過した今でも、まったく色褪せない論理が展開されていたことに驚きを隠せない。

時代を経ても変わらない人間の対立、お互いを文人と武人、お互いがいかに認めあい、活かしあうか。自分がどちらのタイプに属するか、それに置きかえて考えてみることもできる。また、自分の内部で、文人的資質と武人的資質が対立または融合していると考え、それぞれの特性を活かすには、おもしろおかしく自分の性格及び資質と付き合っていくには、と問いを立てて考えても面白い。


[武と文]1975年6月20日午後 経団連会館十二階ダイアモンド・ルーム

学問に、人生に、目的は必要なのか

学問というものにもし何のためにという目的というものがあるとすれば、これは人間の栄光のためにあるんだという、そういうことだとわたしはかんがえております。実用的目的には何の役にもたたないけれども、しかし人間というものの尊厳のためにあるんだという、そういうことです。

学問は「人間の尊厳」のためにあるというのは金言。しかし、ここ最近のアカデミア、とりわけ国内においては、実用的な目的に役に立たないことは非常にやりにくくなっているように思われる。

社会のなかにはこういう、クソの役にもたたない、何にもならないような人間、そういう知的活動だけをやっている人間というものを、まあ善か悪かはわかりませんけど、かかえてゆかざるをえない必然性があるんだというふうに、わたしどもはかんがえております。そうでないと、われわれのごとき存在が、この世の中で存立をゆるされているということの論理的根拠がよくわからなくなります。

必要善か必要悪か、自分たちが生きる時代では判断できないこと、わからないこと、ロマンあることへの寛容性。短期的に結果や効果を求められても、困る領域というのはたくさんある。

人生における世俗的価値、権力や、冨をすてさって、まったく役にもたたむことに一生をついやす、出家の一種です。わたしはながく大学ぐらしをしてきましたが、大学というところは、まさに巨大な出家の集団です。

もっぱら大脳神秘質をはたらかせることによっていきている連中、ほかには何にも役にたたないし、力もない。こういう人たちを、何とよぶか。いわゆるインテレクチュアルズといわれる人たちですが、日本語あるいは漢語でいうと、やはり知識人ということになりますか。あるいは、ややふるい感覚をともなう言葉ではなりますが、いっそうひろく文人墨客というときの文人という言葉がこれおにあたるのではないかとおもいます。

出家かぁ、言い得て妙。極論まで、突き詰めていくとそこにたどり着くことが自分にもよくある。そして、その人生に憧れもする。

組織を組織たらしめている最大の、あるいは最小限の要件は何かともうしますと、それは「目的」であろうかとおもうんです。集団の成員が共通の目的をもっている。あるいは共通の目的にむかって集団の成員のあり方が規制されている。(中略)人類史のながれのなかでは、全体としてみるならば、非目的的なつまりゲマインシャフトから、しだいに目的的なゲゼルシャフトへと大勢はうごいてきた。目的的集団、ゲゼルシャフトというものがたいへんにふえてきた。

わたしは、人生には目的はないんだというかんがえです。家族に目的がないように、人間個人にも目的はない。これは、うまれてしまったのであって、しようがないんです。目的というものを、一時的にいろいろと勝手に設定することはできますけれども、あらかじめきまった目的というようなものはありえない。(中略)わたしの存在というものは、なんとなくあるのであって、何かを目的として存在しているわけではないとおもうんです。

ジョセフ・キャンベルは「人は生きる意味を探しているとは思わない。生きているという経験を求めているのだ」とも言っている。しょうがないし、なんとなくある、そう言われると、目的思考にがんじがらめにされていた、自ら課していた自分に気がつくし、その愚かさを冷静に振り返ることができる。

戦争と軍隊、そして組織と武人、目的が生まれた場所

人類史における目的的組織の大発展の原動力になったのは、これはまたたいへん大胆な仮説ですけれども、わたしのかんがえでは、これは軍事ではないかとおもうんです。戦争というものがなかったら、人間はこれほどまでに徹底した目的的組織を発展させることはなかったのではないかというわけです。

戦争というものの大きな特質の一つは、目的がはっきりしているということです。(中略)戦争以外のものには、こういうきびしい目的の体系をくみあげるだけの力は、おそらくそなわっていないのではないかとおもいます。

この百年ばかりのあいだに、日本にかぎらず、世界全体で、組織化という現象はいちじるしくすすんだようにわたしはみています。その意味で、現代はやはり武の時代であります。武人の時代であります。武ということは、さきほどももうしましたように、目的合理性の貫徹ということだとおもっております。

現代の企業経営者、会社員に世窮されている資質、能力は、基本的には、軍人に要求される資質、能力とはほぼおなじではないかとおもいます。たとえば、刻々の情報を確実に収集して状況を正確に把握する。そして、そのときどきのあたらしい事態に迅速に対応して、それを処理する。

今日の、まあ軍事文化の極限的形態としての企業ないし組織というものは、ある意味で軍事文化の定向進行の産物であるのかもしれない。どんどん一つの方向に発展して、組織化というものが極限のところまですすんできたのかもしれない。

目的的組織がどのようにして、生まれてきたのか歴史を大局的に捉えている。戦略や戦術と言ったように、戦争の言葉をビジネスに置き換えて考えることも、これで納得がいく。そして、目的、企業のミッションやビジョンというのは、絶対的なものではなく、あくまでも組織を形成し統率する上での手段であると距離を置いて考えると、冷静に会社を捉えることができる。『失敗の本質』、『君主論』、はたまたクラウゼヴィッツ『戦争論』を読みたくなる一説(まだ、中途半端…)。


文人とその論理、どうして、出家?

われわれ文人たちは、何べんでも、決断をためらいながら、ああでもない、こうでもないと、かんがえることができる。われわれはそういう特権をもっております。何ごともきめないでおくことができるというのは、ある意味ではまことにありがたいことです。

文人たち、あるいはインテレクチュアルズの能力のなかで、いちばん大事なことは、前提のきりくずしという能力であろうかとおもうんです。文人であるための必要条件というもの、最低この能力がないといけないということは、もののかんがえ方を根底からひっくりかえすという能力です。みんなが、これだけはまちがいないと信じていた、その根底をひっくりかえしていく。

それは同時に、つねに自分自身に対する疑問をくりかえしもっていくことを意味します。自分をうたがうんです。みずからをうたがうということ。いままでこれだけはまちがいないと信じていたことをひっくりかえすこと。こういうことができるというのは、これはまあ、わたしはやはり、大脳がこんなにおおきくなってしまった人間という存在の、業だとおもうんです。何一つ、これだけはまちがいないというはっきりした基礎、地盤というものはありえないんだということを、くりかえしくりかえし証明していく。これはいやな仕事です。しかし、やめるわけにはゆかない。かんがえないでおこうとおもっても、かってにかんがえられてしまうのです。

文の人は、なにもできなくてもいいではないか、とかんがえるのです。すくなくとも、自分は実際的目的に奉仕するよりも無為でいたい。この世の中において現実的に無為でいるためには、出家しかない。世すて人になるほかない。これが文人の論理なのです。じっさい、学者、芸術家のなかには、世俗的目的の行為を、心の底から軽蔑している人は、いくらでもいます。

前提を疑い、根底から考え続けることが人間という存在の「業」だと言うのであれば、なんて厄介な生物に生まれてしまったのか、と後悔できない後悔をしたくなる。無為でいるためには、出家でしかないとあるが、出家しても、無為でいられる保証はない、山下良道さんと藤田一照さんの対談本『アップデートする仏教』にそこらへんは詳しく書いてある。仏教3.0に何か、進む道が開けていると今のところ思えている。

文人と武人の対立と共生

組織の原理がすべての領域にわたって貫徹してゆく時代において、組織化に適応できぬ人間、あるいは組織化が拒否する人間は、いったいどうなるのかということを梅棹は考え抜いた。それはつまり武の原理の優越する時代にあって、文人たちはどうなるのかということでもあり、武と文の関係、武人と文人の関係はどうなるのか、を考えることにつながっていく。

決断と実行は、つねに事態を収拾し、事態を前進させます。それが武の原理です。武の原理は、つねにエントロピー減少にはたらく原理です。つねに秩序の維持、形成を目ざす原理です。それに対して、文の原理は、つねにエントロピー増大の方向にはたらきます。それは崩壊と退廃の原理です。

文人は武人に対して多少とも警戒心をもっています。それは、武人がつねに明確な目的をもっているからなのです。あるいは、目的を明確にしたがるからです。世の中のことというのは、なんでも多少ともあやふやであり、多義的なものですが、武人は、それこそ武断的に、目的とそれに対する手段とを一義的に決定します。ということは、一つの価値による他の価値の排除、抹殺ということです。抹殺されてはかないませんから、警戒するわけです。

人間の精神を錬磨してゆくについての、二つのことなる方向、ことなる仕方についてもうしあげているのです。経済人をもふくめて、あるいは経済人を中心とした組織の人として生きるか、組織からの離脱した自由な個人として生きるか、人生における生き方の選択の問題としてもうしあげているのです。このような、組織の圧倒的優位の時代にありましては、非組織人は、やはりいささかの困惑をおぼえずにはいきてゆけません。今日では、古典的な二分法における文官さえも、実際として、武人の資質をみにつけないわけにはゆきません。

とおく律令制における文官・武官の二分法は別として、中世以来は、武と文の融合がはかられていた、というべきかもしれません。あるいは、武の「文」化がすすんでいたのです。そして、「文」化はまさに文化であります。

知性の二面性

じつは、知性というものにはかならず二面性があります。一面では、目的合理性を追求するために論理的思考法ができるということがあります。したがって、軍人も、たかい知性をそなえていたほうが軍事作戦がうまくいく場合がひじょうにおおいわけです。で、先ほどもうしましたように、組織の総合戦力を増大させていくためには、やはり教育をさかんにしなければならない。

知性が開発されると、自分自身のあり方に対するうたがいがときどきふっとでてくる。それを圧殺することはできないんだということです。

知性には一方で、はじめからきわめて欺瞞的要素がふくまれています。欺瞞的という言葉はおかしいんですが、知性というものにはじめから一つのものへの固定的忠誠をうらぎるような要素がある。つまり、根底をひっくりかえすという、これが知性のもっとも根本のとこだということが最初にもうしあげましたが、つねに目的へのうたがいをもつ、これが知性のはたらきです。合目的的思考というものを根底からきりくずしていく。目的に対する奉仕、組織に対する忠誠というものを根底からきりくずしていく、これが知性の一つのはたらきです。

確かに圧殺したいんだけれども、いつも自分のことばっかり考えちゃう。人間の業なんだな。そして、目的的に考えることを崩してしまうことも知性。これだと、議論ばかりしてしまい、前に進まないことが続出する。それは今のスピード重視の社会では受け入れられにくいものだけれども、そのぐだぐだな目的があるのか、ないのかわからない時間や議論はとっても重要だし貴重だと思う。

目的の連鎖が限界に達するとき、そこに生まれるもの

目的のヒエラルキーというかんがえ方でいくかぎり、今日ではもう原因結果の連鎖をずっとたどることはできないんです。目的の連鎖というものをたどっていって、どこまでも、これは何のために、何のために、何のためにと連鎖をたどっていくと、どこかで連鎖がきれるんです。昔のように戦争でかつかまけるかということであればはっきりしますけれど、そうでないときには、個人としての人間の生き方とか、いろんなものがはいってくる。そこで、目的の連鎖がどっかふっと空にきえてしまうこところがでてくるんです。

合理的目的の連鎖というものは、頭のなかでかんがえると、はっきりしているんです。企業の目的はこうだ、そのためにはこうしなければならないと、まるで軍事行動のように、非常に整然たるようですが、そのなかにはいっている兵士たちの心のうごきをかんがえますと、もう到底目的を系列的にはっきりならべることはできないんです。その意味では、組織というものは今日では一種の幻想的な存在になっている。目的の系列は、頭の中だけ、幻想的、観念的にだけ存在しうるもので、現実にはそういうことはもうありえない。たいへん奇妙な関係になっていると思うんです。

合理性というものは、今日においてはおそろしく不合理なものになってきたということなんです。あるいは、合理性というものが合理性をもつためには、知性があってはいけないんだ、ということだとおもいます。知性というものがくわわればくわわるほど、合理性というのは挫折するという、たいへん逆説的関係になりますけど、そういう関係になる。ひじょうにおもしろいことだとおもうんです。

目的合理性が貫徹していない、何のためにやっているのかわからんような組織こそは、じつはひじょうな合理性をもっているんだ、ということになる。ゆるやかな組織です。そういうことならば、それぞれの組織のなかの、知性を身につけた、つまりリンゴをくってしまった人間たちがはたらく場がそういうことろにはできてくるんだということです。ある人生の部分的目的をそこを通じて、もつことができる。

昨年、出版された『利益や売上げばかり考える人は、なぜ失敗してしまうのか』で紹介されている目的工学と比較して、考えてみたいところ。共通善なる目的を持つことの重要性が語られているけれども、梅棹さんは、そんな目的すらも、合理的目的と言っているようにも思える。そして、合理性が不合理になってきているというのは、言い得て妙、本書で一番深くうなずいたポイント。

それが、40年も前から言われていたことに、そして、今でも変わっていないことに、ここにも人間の業を感じてしまうのであった。