真善美とナッジ・パターナリズム

未来を見据えるために、人類がこの先向かっていくシナリオを妄想し構想するときがある。危機的な状況、例えば戦争、通貨危機、気候変動やロボットによる支配など。そしてシナリオを描くときに、一要因として我々がどのような方向へ未来を推し進めたいと考えているのか、が影響してくる。影響という生半可なものではない、複雑性が増し誰しもが未来がどうなるかわからない世界では、小さな組織や一個人にとっては意志程度しか考えられることはない、非常に無力である(おそらくもともと無力であるのだが、どこで力を持ったと勘違いしたのかのほうが重要かもしれない)。そんな諦めの境地でありながら、自分が信じられる「真善美」を結晶化していく。それに人々が共鳴するならば、ほんの少しだけ何かが動くかもしれない。動くことを期待しない、結果として求めない、真善美を追求し、行動していく。結果はどうかはビジョンとしてはあれど、うまくいくかは神のみぞ知る。

ナッジ・パターナリズムについて。介入主義において、どういった意図で環境を設計し、人々の無意識に働きかけ、行動の誘導を設計するか? そこには必ず「真善美」が求められる。経済性や合理性だけを追求するために、人々の行動を導くなんてことは、楽しくもなんともない。人間は兎角あるべきだと、絶対者の視点に立ってみるのだ。スティーブ・ジョブズやソニーの創業者たちは、その視点を持っていた。何が、美しいか、何が真か、何が善なのか。これらはすべて相対的な価値だ、人によって捉え方も感じ方も違う、価値の周囲にストーリーを設置することで、コンテキストを固め、相対的な価値のポジションを定め、絶対的な価値に近づけていく、のだろう。

しかし、その意図通りに運用されるのか?は別の議論だ。意図がよくても、運用の段階で、別のエネルギーが発生すれば、当初の意図はねじ曲げられる。設計と運用は表裏一体であるため、それぞれをバラバラにすることはよくない結果に繋がる。UIの設計は、完全に緩やかな介入主義の産物であるが、それが意図通りに改善されていくか?は別の話だ。スマートフォンのサービスにおいて、生活者の生活がよくなるように設計されているサービスはまれである。どんどんと生活の時間を奪うように、奪い合いのように設計している。怖い怖い。恐ろしすぎる。(※時間を規制するアプリと放流するアプリ、二種類がある。これはまたどこかで書きたい)

そして、ナッジにはセンスが求められる。数字だけを見て、数字だけを追求していけば、その先にあるのは個人主義の皮を被った全体主義だろう。今後、あらゆるセンサー技術によって、人間の外部に対する認識と行動が明らかになり、習慣が数値化され人間はすべて数字として表現され、扱われる。そして、放っておけば、数字によって最適化されたナッジがあらゆるところに散りばめられ、世界を無意識に駆動していく。まるで、ジョージ・オーウェルの『1984』の世界だ。神や英雄を待望する時代が再びやってくる、数字に支配されないために、絶対的な真善美によって、その支配から逃れるために。