久しぶりの更新

By: Delwin Steven Campbell

なにか伝えたいと思って、書きはじめるのだと思う。ここ(Blog)に書くということは、誰に見られているかわからない、そして、誰かに見られたい、伝わってほしいと思っている。が、書き始めると、急に畏まってしまい、思いつく限り書いていっては支離滅裂になると筆が止まる。

ただ書きたいという欲望だけを満たすならば、それでいい。だけれど、誰かに理解してほしいと思っている部分もある。そして、伝わりやすさを頭の片隅で意識すると、急に昔に知識として詰め込んだ文章のお作法やロジカルシンキングなどのわかりやすく伝える手法がじゃんじゃん溢れてくる。そして、いつの間にか、書く欲望よりもわかりやすさを追求する手法に回収される。このような駆け引きが自分の中で起こる、自分のブログやfacebookの投稿を書くときにだ。

Blogにおいて、コミュニケーションの主権は読み手にある。文章をWebの荒野に解き放った以上、リアルタイムでの内容に関する解説やフォローはできない、相手の反応もまったく見えない、どう出るか、まったく反応がないのか、急激なユーザーが訪れるか、炎上するか、それは予測不能だ。ブログ一つを書くにしても、不確実性と対峙する必要がある。不確実性に恐れをなして、誰が読んでも理解できてわかりやすい、誰にでも受け入れられるような主義主張を出さない、人のコンプレックスや欲望を煽る内容、にまとまって行きがちだ。

書くことで飯を食べているわけではない私でさえ、文章を書くことに時間を費やしたならば、その時間に見合った反応という報酬を無意識に求めている。そして、書くことで少しでも人の役に立ちたい、もっとエゴイスティックに言えば、人の人生に影響を与えたい、もっと言えば、行動変容をもたらしたい。たった一つの記事でそれができるわけがないが、しようとすれば浅はかな内容になる。どうしても、誰が言ったのか?を気にするから。強い主張の証拠として、自分がこのアイデアで行動を変えていいんだという承認のために、書いた人の名前は使われる。だから、人の行動を変えると無理難題を目標に据えたときに、一般人の小手先な記事はなんの援護射撃にもならない。一瞬で忘れ去られる。ひたすらにチリを集めて山としていき、PVの大きな山を作ることをゴールとするならば、ライトな記事は強力な援護射撃となる。が、僕が関心を寄せているのは前者なので、中途半端なものは援護射撃にはならない。だからといって、行動を変容してもらおうとする記事は意図してかけるものでもなさそうだ。

原則として、私はどう人から見られているか、を気にする習性は避けられない。自分をさらけ出すことで自分を隠したり、自分をさらけ出さないことで何かを主張する。ときに裏の裏を読んでみたり、まったく気にせずにそのままさらけ出してみたり。その出し入れをすることで、カモフラージュする。安易なわかりやすさは敵だ。時と場合とコミュニティによって、都合よく仮面を使い分けている、それは意識的ではなく、環境や刺激に反応して、仮面を知らぬうちに被っていることがほとんどだ。

公式な場では、お作法に則りながらお行儀よく文章を書く。これまた刺激に反応して現れる違った仮面なり。このブログはそういった仮面被りの反動で、素の自分を取り戻すための場である。

と、そんなわけがない。ここで書いている自分もきっと何かの仮面を被っているし、仮面の下に本当の自分があるのかも疑わしい。仮面を剥ぎ取っても剥ぎ取っても、仮面だろう。仮面の下に真性の自分がいるのではなくて、仮面を入れ替え脱ぎ捨てているその行為そのものが自分なのであろう。こうやって、本当に書こうと思ったことにたどり着かずに、書いている最中に、本来は書こうと思ったことを忘れる、本当に忘れた。最近、起こった変化とか書こうと思ったのだが。誰向けにだ?知らない、書きたいから書いているだけなのだろう。そして、誰かにみられているという微細なプレッシャーを刺激が目的意識となり、タイピングを加速させる。

消化不良でまた何かを伝えたくなったときに、ここに戻ってくるんだろう。