ジャムとばあちゃんとパリ 第2話

大学に進んだとき、僕ははじめて自分が小さな日本の小さな片田舎に住んでいたことを知った。環境の変化はほとんどなく、生活圏は自転車10分圏内。言葉に不自由することはない、多様性はなく均質。みんなだいたいサラリーマンか公務員の息子、ときたま社長や医者の息子がいる、そんな高校からの大ジャンプ。ジャンプというより、崖から思いっきり突き飛ばされた。一人暮らしができれば満足なんて思ってただけなんだけどな。はじめての土地が居心地のいいところになるまでには時間がかかるということだ。転校経験0回じゃ、新しい土地に行くという行為そのものがなにかわかるはずもなかった。

今でも忘れないファーストショックは、言葉が通じない、通じない、なんで。挙句の果てには、

「何を言っているかわからないんだよね」

テレビドラマで聞いたようなセリフ、クールでドヤ顔の東京人の口から漏れる、ここ進学先は北海道。自分は標準語だと思っていたけれど、勘違い、それは半径10kmのこと、まさに井の中の蛙、ここは北国北海道、大海知らずに生きてけない。日本全国東西南北、優秀な頭脳を受験勉強に費やした猛者たちが集った。大阪弁も博多弁、札幌の訛り、青森弁に市民権はあるけれど、石川の小松の言葉には市民権はまるでない。都会人には耳障り悪いアクセントとリズムと語尾。

そんな入学式前のオリエンテーションの夜、友達はできたのはいいけれど、何かを捨てなきゃ生き残っていけないこともわかった。そして、大学は遊ぶところ、そんな刷り込みで田舎からやってきたからには、遊ぶためには変わらないと。勉強している奴の意味がわからない。人生で許されたモラトリアムの4年間、この期間にできることはすべてやらなきゃ。働き始めれば奴隷のような日々が待っている。そのときの僕は金の頭。高校時代の反動で染めた。ようやくファッション雑誌の世界に仲間入りした気分、けれどもきている服は中途半端なこだわりでかっこよくない、むしろダサい。そんな大学のスタート。

子供の頃から時間をかけて作りこんできた幻想(大学は遊ぶところ)、やっぱり楽しむならサークルか、これまでの延長線上で野球をやるか、スポーツを天秤に乗せてみる、さっそく野球は脱落、雪降る中での筋トレはごめん勘弁すみません、半年筋トレまじきつい、野球以外の理由でNG。そんなこんなで流れた先に待っていたのは、なぜだか、て◯す。頭が浮かれたままで、おだてられて、ほいほいついてく馬鹿野郎だったにちがいない。

ゴールデンウィークからはじめたバイトは、う◯たみ。勤務時間は22時から朝の5時。一緒に働く少し年上の青年は、言葉がきつい、タバコをすながら、料理を作る、その姿を見て、正義感が疼いてしまい、逃げ出すように退職。モラルのない職場は耐えられない。バイト用にきった髪は高校時代と同じくらいの短さで、もう金髪の跡形もない。

バイトも辞めた、やることがない、やることがある、麻雀。日々麻雀、クラスの仲間と授業で出会った仲間とも、遠くに置いてきた恋人のことはどんどん忘れてしまう、そしてなぜか別れをお昼休みに告げる、いったいおれは何様だ?もうまったくよくわからない、いったい自分がなんだかわからない。ごめんなさい、本当にごめんなさい。そんな記憶が今、蘇る。少しだけもてはじめた気配に負けた、けれどももてても何にも嬉しくない。生活にメリハリはない、酒を飲み、麻雀をし、友の家で眠り、ぎりぎりで授業に出る。たまに街に買い物に出ても、財布の中身はほとんどない、なにかするために目の前の自動車学校に通い、無事卒業。なんだか虚しい、前期の大学。

こんなぐだぐだ堕落した日々の中でも、ターニングポイントはあった。演習科目で履修した授業「飢餓と飽食」だった。教科書のタイトルのままの授業。

メディアから流れる印象でしか、捉えていなかった飢餓という問題を正面から(広く浅く)学んだ。しかし、授業の内容は覚えていない、その講座で一緒だったクラスメイトと仲良くなって、夜遅くまで飲み歩いたのは憶えている。青春の記憶しかないが、食糧問題は食糧の不足でだけじゃないということ、科学技術だけが絶対的な解決策じゃないということ、この二つを叩きつけられた。そもそも、飢餓とかよくわかっていなかった、砂漠化とかと一緒だと思っていたはずだ。

飢餓という問題が量的な問題ではなくなってから、その背後にある貧困ってなんだろうと考え始めたきっかけである。図書館で、ふと手に取ったアマルティア・センが難しすぎて断念したことは忘れない。世の中に読めない本ってあるんだと、難しすぎる本にはじめて出会うきっかけにもなった。とはいえ、そこまで深い印象に残っていなかった。

しかし、そんな強い想いが、物事を推進したわけではない。理系で実験をバリバリやるつもり(イメージだけ)でいたのに、実験が苦手、反応を待つことができない、10分に一回記録するためだけにフラスコとビーカーの前にいることに意味を見出せない、教室を飛び出して、遠のく雲を眺める実験実習、遠のいていく理系のキャリア。成績ももちろん、急降下で、なんのためにわざわざ海を越えて、北海道までやってきたのかわからない。

苦肉の策で、バイオテクノロジーから距離をおいて、本気の農業を目指すか、遊びを貫くか、土俵際で残った真面目な気持ちが寄り切り、ガチ農業を農場でやる学科を第一志望に、けれどあえなく撃沈、遊びを貫く道の先にあったのが、農業経済学科。こうして、選択はまったく自分の思い通りにならずに、流されるように偶然のように、決まっていった。

つづく。

Naoki Yamamoto
1983年12月25日 石川県生まれ。野球漬けの高校生活を経て、北海道大学農学部に入学。「スノーボード、旅、読書」の三種の神器に明け暮れる。卒業後、システム会社に営業職で入社。 2009年株式会社グランマを立ち上げ。1年後に発展途上国の貧困層に必要なデザインやサービスを展示する「世界を変えるデザイン展」を六本木で開催、2万人を動員。2014年12月に退職し、現在無職。仕事の傍ら、ノンフィクション書評サイトHONZに参加中。