ジャムとばあちゃんとパリ 最終話(十代)

それで解ったことは、自分の経験とは、実は自分の頭の中に記憶されているだけはなく、社会の中で多くの関係者の頭の中に記憶されているものだ、ということである。考えれば当然のことで、自分の記憶容量には限界があり、自分について全てを覚えことはできない。しかし、自分を取り巻く無数の周りの人間の記憶容量を合わせればかなりの量になり、自分では記憶できないこともたくさん記憶している可能性がある。(中略)自らの経験は自らの頭の中にあると、何となく考えてきた。しかしそれは正しくなく、自らの経験は、社会の中で共有されているものなのである。

『どうすれば「人」を創れるか ーアンドロイドになった私』

人はすぐに忘れてしまう。どんなに大切なことでも、どんなに悲しいことでも、どんなに嬉しいことでも。過去は今という時間に流される。未来の構想やひらめきも流される。忘れないためには、記録するしかない。しかし、全てを記録したとしても、それを見るためには同様の時間が必要になる。時間という限られた資源を、自己の記録の閲覧・管理に使いたいと思う人は多くはないだろう、少なくともぼくは思わない。

だから、人は物語を発明したんだろう。しかし、物語にした時点でその記録はリアルなのか。つまりノン・フィクションなのか、フィクションの境界線は曖昧ではっきりと線を引くことは難しい。逆にフィクションだって、現実に起こった出来事から話を広げていることだってある。「事実は小説より奇なり」というやつだ。

ここまで自分の記録を書き留めてきたが、これ以上は人に晒すべきものではないと思った。ぼくの思っている事実は人にとっての事実ではない。それを一つの事実として仕立てようと思ったが、それはあくまでも自分が主張したい自分に起こり、理解した事実であって、他の人にはひとまず、違うように受け取られている。冒頭の石黒教授の引用にあるように、私の記憶の記録が、体験の主体であるからといって客観性があるわけではない。わかってはいたけれど、自分の過去は自分によって語られる方法より、周囲によって語られることもあるし、ぼくは後者を好む。だから、自分自身から自分をこれ以上晒すことは何の価値もないものとなった。

とはいえ、18歳までの選択とその背後にある理由を記録する努力はしたのだから。

ジャム