そこに大きな意味はない、あるのは面白がれるかどうかだけ

映画「長い言い訳」を見た。

そこにあるのは、非日常のあとにある日常であって、意味はない。
たまたまありえる、あったかもしれない、起こってもおかしくない一つの物語があっただけ。

特段、意味があるわけでもなく、誰かの身に訪れるかもしれない、誰かの日常かもしれない、ひとつの生活がそこにあった。その物語に大きな意味はないんだろう。喪失が埋められ、喪失にはまり込み、喪失が明らかになる、喪失に免と向かい合い、喪失と背を向ける。

ふと、そんなことを書いていて、西田幾多郎を思い出した。

回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。

引用先:http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/43655_22317.html

この映画も喪失に向かって一回転をなしたといえば、それでこの映画評は尽きるのである。