お茶という交換価値の終着点2

ギフト市場におけるお茶がなぜ存在感があるのかを考えてきたが、ここからはなぜお茶が交換価値の終着点になるのか、 に話を進めていく。

結論から言うと、溜まって、飲みきれず、またはそもそも飲む習慣がなく、腐って、ゴミとなるからである。

勝手な想像でしかないが、年間に生産されるお茶の量は、人が1日2杯を飲んだとしても、十分に余りある生産量なのではないかと推測している。

そして、ギフトとして贈られたお茶はその余分な量の大半を占めるのではないかと思う。

お茶が毎日の習慣であり、好みである場合、お茶は来客用で、そんなに飲まない場合、そもそも嗜む習慣がまったくない場合、そんな場合わけは考慮されずに贈られるのがお茶である。

そして、日常的に消費している好みのお茶ではないものがたいていは贈られる。高ければいい、質がよければいい、というわけでもない。毎日繰り返し同じものを飲む安心感、定位置感をお茶に人は求めている、たぶん。

購買活動を変えるようなお茶はなかなか存在しない、だってギフトだから、日常的に買うには高すぎる。お茶に日々の彩りや冒険を求めている人は少数で、定位置感を求めている人が大半で、お茶にそんなものを求めない人もまたたくさんいる。

贈り物としては抜群の使い勝手を持ち、贈る側も贈られる側もその瞬間は悪い気はしないお茶。これが、気がつけば、キッチンの収納を物理的に支配するタンス預金となり、賞味期限や収納の限界により年末年始の大掃除で、未開封のまま、あえなくお役御免となる。

そして、ギフトとしての役目は無事に果たし、消費財としての役目は果たされぬまま、商品としての運命を終えるのである。

交換価値は高いのであるが、使用価値に転換されないまま、贈られた時点が終着地点になる哀しさをお茶に見るのである。

おわり

p.s.マルクス経済学のことを理解して、交換価値と使用価値という言葉を使っているわけではありません、ごめんなさい。