いつもとちがう海

近所にあるのはリゾートでもない、観光地でもない、漁村でもない、ただの海。人の気配はまったくない。背後からは高速道路を通る車のエンジンとタイヤの摩擦の無機質な音が後ろで鳴り響き、街と海とを隔離する。目の前からは聞こえるのは寄る波と引く波のざわめきが聞こえる。そして、ときおり松林の方から聞こえる虫の音色。

暗闇にある色の世界。カメラでは写せない波の色、空の色、海の色、星の色。満月だからこそよくみえる。昼とは違う色がある。

暗闇にある怖さ。津波、不審船、ヤンキー、動物。夜の海は想像力を逞しくする。人が畏怖すべき自然はすぐそこにある。

何も起こらないと想定しているから、
想定内の動きをしてくれるから、
コントロールしようとしているから、
安心ができる。

暗闇の海に、安心はない。
何が起こってもおかしくないとざわめく心。
360度、うっすらとした暗闇の世界に無防備に存在する私。
暗闇が作り出す不安、畏怖の感情。

海、時間だけで、光の加減だけで、変わる。

すぐそこにある自然で、自分の中の野生を感じた。

届くべき人のところに情報が届くには?

届くべき人のところに届くといいね。

2016/10/06 23:20、電池残8%の6年目ベテランMacbookAirから書いてます。カタカタカタ。

昨日、今日と、第二の故郷、北海道に行ってまいりました。ありふれた見慣れた風景に、いつもエネルギーをもらっています、札幌の街ありがとう。しかし、卒業後10年弱で20回は出張しているため、感慨深くなることはもうありません。ただ、この土地に残してきた若き日のエネルギーを思い出し、またがんばろうと勇気がふつふつ湧いてくるのです。

本題ではありません、与太話です。とりとめもない話を書くために、久しぶりのブログを書こうと思ったわけではありません。

嫁が事業はじめました。物珍しくはありません。フィリピンやインドネシアのおばちゃんなど、この地球上ではだらしない男性より、女性のほうがたくましく生きています。そんな姿ばかりを見ていたこともあるし、統計的に見れば、女性の起業もありふれた話の一つです。

が、いつも横にいてくれる人となれば、やっぱり話は別です。いつかはなにかをやる人だとは思っていましたが、とうとう小さな一歩目を踏み出しました。意識高く『GRIT』を読むけれど、やり抜く力の乏しい、だらしない旦那をぜひとも養っていただきたい。

主夫が35歳までの第一志望で、汗もかかない、感情のブレも少ない、体温も低い、そのわりに新陳代謝はいい自分ですが、この2年はだいぶ涙もろくなった気がします。とにかく色々ありすぎて。だから、本当は心のそこから祝福したいのですが、涙がですぎて恥ずかしいのでできません、というのは半分本当で、半分ウソで。

起業という長い長い、道のりのはじまりの一歩にすぎないのだ」と、どこかのおっさんか父親みたいな気持ちになっています。実際、目指しているゴールがどこなのかは把握していませんが、選んだ領域が厄介な問題(Wicked Problem)で、道のりも相当長いはずでしょう。さらには病を患った嫁の背中をさすった、いや蹴飛ばした張本人であり、期せずして共同創業者との出会いを創ることになり、前もって知っていたこともあるし、ついでに自分の起業した経験もあるから、ついつい冷静に状況を見て(悪くいうと傍観)いました。放っておけば、天に昇るくらい盛り上がる気持ちなのです、けどけど、無理やり鎮めていました。

このままほろ酔い気分で、同じことを何度も書きそうなので、まとめると、喜ばしいことである反面、強烈に冷めていた、ということです。

だから、起業して数日後に公開されたニッチなメディアに関しても、まぁ「届くべき人のところに届くといいね。」くらいにしか、本当に思っていなくて、そんなコメントをFB Messangerで嫁に送っていました。

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で、公開数日後、落ち着いたので、facebookを眺めると、沢山の友人がシェアをしているではありませんか、100近くも(実姉含む)。とりわけ、まったく興味も関心もなさそうなマニアックな友人が熱いコメントをしていました。ここまできて、ようやく読んでみようかな、と思ったくらいです。

なんか、怖くて本当に読みたいと思えなかったから。偽らざる感情。複雑な気持ち。

だけど、深夜に意を決して読みました。シェアしろってうるさいから(照れ隠し)。

UMU:http://umumedia.jp/

3つの記事がアップされているのですが、軽い気持ちで読みはじめたら、他の記事も読みたくなって、全部読みました。そして、しばらく唖然としました、呆然としました。

あ、Webで読める内容じゃないなって思いました、だって、書いてある中身がほんとに仲良くなった人にしか話せない、話さないことだから。

あまりにも、赤裸々で

すこやかな、真っ直ぐさで

気持ちのいい、しなやかで

正直、このメディアを読む前は、自分自身が「届くべき人」だと、主要な読者層だとは思っていませんでした。タグラインでも

「不妊、産む、産まないに向き合うすべての女性たちへ。未来をともに育むメディア」

って謳ってあるし。

だけど、今アップされている3つの記事を読んで、これは多くの男性にも、特に30−40代既婚男性(子供有無問わず)にも読んでほしいなと。

みんな大好き「あなたが◯◯◯を読むべき3つの理由」のよような御託を並べるような下世話なことは得意ですが、しません、そんな表面的なことにまとめられない。そしてそんな薄っぺらいことをしなくても、多くの人に届く記事だろうから。

まとめると、友達に、知人に、この3つの記事を読んでほしいです。

UMU:http://umumedia.jp/

なぜなら、届くべき人って、

そうか、自分なんだな

って思えたから。

読んだあとに多くの人に、まずは友達にそう思ってほしいと思ったから。

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「その日暮らし」と「未来予測」の間で その1

「ヨーロッパ最高の知性」と称されるジャック・アタリの『アタリ文明論講義』を一気読みした。これまでのアタリ本の読みにくさはなく、流れるように読める本である。そのため、削ぎ落としたものもたくさんあると思うが、深く知りたければ他のアタリ本を読めばいい。

同時に『その日暮らしの人類学』という未来を予測するアタリ本とはまるで縁のない、正反対の本を読んでいた。

当初はこの2つの本を、二項対立で捉えていた。今ここを場当たり的に生きることと、未来に積極的な姿勢で生きること、と。対比の中で浮かび上がってくる新しい考察にうっすらと期待しつつ。自分の中にこの本に登場する2つの人格がいて、それらがどのように統合されるか、淡い期待を抱きつつ。しかし、読んでみると、二項対立が絶対矛盾的自己同一な雰囲気になっていった。

まず、『アタリ文明論講義』。その結論だけみれば、その自信満々さに驚くだろう。


・怠惰は予見の最大の敵だ。予測は自由の最良の味方である。そして予測は、暗黒のシナリオが現実になるのを避ける唯一の手段である。だから、予測に必要な時間を確保して、勇気をふるって予測したまえ。やってみれば思ったより難しくないはずだ。

・未来を予測する効能の一つとして、現実の重苦しさから逃れることがある。それは、夢見るためであり、思い切って挑戦するためであり、創造するためでもある。

・誰もがこの練習を刷る世界になれば、個人と共同体の未来を根本的に変えるだろう。必要な物事を先延ばしにしたり、無分別な態度を取るものは誰もいなくなるだろうし、コンピュータという独裁者に身を委ねたり、自分自身のエゴイズムに甘んじたりするものは誰もいなくなるし、あきらめたり、他人が決めた人生のトンネルに閉じこもる人たちもいなくなるだろう。

・改めて言うが、私のいうテクニックを本気で信じて実践していただきたい。そうすれば大きな変化がある
(すべて、第四章とあとがきから要旨をまとめた)


オレオレ的にアタリの未来予測のエッセンスとテクニックを余すことなく開示しているが、難易度が高すぎる。凡人にとってはかなりの時間を浪費すれば実行できるレベルに仕上がっている。そして、アタリは多くの人が自分と同じように少しでも考えれば未来はよくなる、と乱暴なことを夢見ているのは上記のとおりだ。

これは第4章とあとがきであり、第1章から第2章は、予測する力と方法の歴史を古代から現代までおさらいするものだ。宗教、政治、経済をめぐって展開する権力史や文明史にピタリと重なってくる。そして、ビッグデータ全盛の現代において、権力は誰が握っているのか、アタリは、政治組織ではなく、金融業界や保険会社が握っているのではないかと示唆する。

保険会社やデータ管理会社は、われわれの抱えるすべてのリスクを把握し個人のリスクに応じた行動をとるように指導するはずだ。(中略)権力者たちと、彼らに奉仕するコンピュータは、人間に対して神々のように振る舞うだろう。彼らは、われわれの行動を予測し、われわれに行動規範を押し付けると同時に余命を容赦なく告げ、抽象的な知性のために人類を単なる観察対象に変えるのだ。

悲観的に予測される未来の中で、アタリが語るのは、「誰もが未来を知ることができると信じたい」ということだ。コンピュータという予言する独裁者に身を委ねる必要はなく、我々は未来の大まかな傾向は推察できるし、その選択権は持つことができると。

そこでアタリが提示する方法は、「未来の基盤」、最も可能性の高い「無色物語」(無職ではない)、最悪のシナリオである「暗黒物語」を、時間軸の予測範囲(今日、今週、今月、今年、今後10年、今後1世紀、それ以上)と5つの段階に区分された予測対象を体系的に分析することだ。5つの段階とは「懐古予測」「生命維持予測」「環境予測」「愛着予測」「投影予測」だ。ここでは方法論はこれ以上詳しくは書かない、本書を読んでも理解しきっていないから、書けないという理由もあるが。

アタリはこのプロセスに取り組むことで、自分の計画や願いが、自分の直接的な行動ではどうにもならないことも含めて実現した、らしい。「自己を予測する」が、「自分自身になる」の諸条件を磁石で引き寄せるように機能し、運命を動かす力のような存在になれるらしい(意味がわかるようでわからない)。

この呪術的な雰囲気は、『その日暮らしの人類学』に近づいて来たような、、環境と自己の欲求との間にある相互依存と葛藤。

いまを生きることはいかにして可能かと問うと、「そう生きたいから」といった 個人の信条や願望と、「そう生きざるを得ないから」という状況的な制約あるいは社会的制度や道徳とのあいだに、幾層も複雑に入り組んだ価値と実践がある

欧州最高の知性が著した未来を予測するエッセンス本と、その日暮らしのタンザニア人が電撃的に接続した!!!

絶対矛盾的自己同一!!
(※たぶん、つかいかたが違う)

あれ、そう思うと、訳者のあとがきにも、未来予測について本質的なようで、実は身も蓋もないようなことが書かれているような気がしてきた。

自分の人生を大きく左右する出来事は、起きるか起きないかの二つに一つだからだ。だからこそ、われわれ各自は、コンピュータがはじき出す統計だけを頼りにするのではなく、時系列に即した因果関係のある物語を自分自身で思い描き、未来を予測しなければならないのだ。われわれ一人一人にそれは可能であるし必要だ

アタリ陣営は積極的に置かれた環境に従順になることなく立ち向かう、そしてできる限り未来を予測しようと自分に環境に働きかけ、知的奮闘する。一方、Living for Today陣営は消極的に状況依存的であるが、したたかに自分の夢を叶えようと来るべきタイミングと運を待ち構えている、特別な努力はせずにそういうタイミングが来るものと信じ切って、来ないならこないで運命だと割り切って。

「その日暮らし」と「未来予測」、この似て非なるものに、共通点がうっすらと浮かび上がってくる、肩の力の入りようは大きく違うが、。それを「その2」では書いていきたい。

「iPhone5」から「iPhone SE」へ機種変更して気づいた「自分の変化」、「切なさ」を添えて

スクリーンショット 0028-04-03 午後6.03.29

発売から2日後、iPhone SEを予約し、発売から3日後 iPhone SEを受け取った。そして、使い始めて、22時間が経過しているのが、今。

だいたい、商品が欲しくて買ったわけではない。買い替え理由が3つある。

1.コストパフォーマンスの改善


以前)ガラケー(au)+Wifiルーター(Rakuten Super Wifi)+iPhone5(契約なし)
 月額だいたい6,000円

 以後)Wifiルーター(Rakuten Super Wifi)+iPhoneSE(au,保証付き,auスマートバリュー適用)
 月額だいたい7,000円(本体価格を除く)

高くなっているが、これは一時的なもの。SIMフリーの筐体を買って、ということも検討したが、Wifiルーターの契約も5月で切れるので、解約するつもりでいるから、6月以降は以下になる。

6月以降)iPhoneSE(au,保証付き,auスマートバリュー適用)
 月額だいたい4,000円(本体価格を除く)

特殊事情もある。家のインターネット契約がマンション付属のjcomで、月額2,500円ほど、それにauスマートバリュー(950円くらいの割引)が使えた。なので、できるだけ安く買おうと思っている人に対しての普遍的なアドバイスにはならない。

2.故障したiPhone5のカメラに耐え切れなくなった


iPhone5のカメラが水没により故障して使えなかった。たいそうカメラがないと不便だった。修理すると、本体交換となり、3万円程度かかる。それなら、新機種を買おうということでiPhone SEの購入を決めた。ガラケーのモバイルSuicaが利用できなくなるのは痛いが、仕方なし。

また、今回は結果として、iPhone SEを購入するほうがお得だった。

(iPhone5を修理に出した場合)iPhone5 の修理費用 3万円
 ガラケー(au)+Wifiルーター(Rakuten Super Wifi)+iPhone5(契約なし)
 月額だいたい6,000円
(iPhone SE 3Gデータ契約の場合)iPhone SEの購入費用 1.5万円(データ容量:3G)
 月額だいたい4,000円

結果として、auで(しかもデータ通信1Gより、3Gのほうがお得と感じた)iPhone SEを買うほうが安いから、購入したに過ぎない。インセンティブに動かされただけなのだと思う。SIMフリーとの比較であれば、修理を選んでいたかもしれない。

3.Appleブランドの新商品への期待(と裏切られた感じ)


これがこの記事で言いたかったこと。Appleブランドの新商品への期待。iPhoneを使い始めて10年弱、Macbook Airは5年弱と、Appleに長年お世話になってきた。そして、いつもどおりの驚きの体験があるのではないかという暗黙的な期待があった。また約3年ぶりのスマホ購入だったので、ITデバイスの新たな進化が体験できるのではないか、という期待感があった。

しかし、これが全くと言っていいほどに今回はなかった。iPhone5からのユーザビリティの変化がほぼゼロに近く(20時間の利用現在)、正直がっかりだった。と同時に2つのことを思った。

1つ、スマホというITデバイスの進化の行き詰まりをそこはかとなく感じたこと。もちろん、細部では変化していると思うが、驚きという感情に転換されるものにはなっていない。これは多くの人がこれまでもジョブズなきAppleについて言及していたことかもしれない(詳しくは知らないが、、、)。正直、これなら修理に出してだいたい3万円でiPhone5に変えればよかったと思ったぐらいだ。そこそこのカメラを3万円で買った思うか、ちょっと性能の良いカメラを2倍の6万円程度で買ったと思うか。驚きがないと、機能やコスト比較に、思考が寄ってしまう。

4.Appleを通じて見る自分の変化


もう1つは、新しいユーザビリティを期待していたと言っている割に、iPhone6Sではなく、iPhoneSEを選んだ自分の保守性。実は暗黙的に変化を求めていなかった、手にしたときの安心感が半端なかったから。新しく無駄な操作方法の学習をしなくて済むと思った。その変化全般に対する自分の感性の変化。これは、衝撃だった。今までならば、操作が変わったことそのものも楽しもうとしていたはず。

自分が変化したことについて、2つの解釈をしている。1つはそもそも、スマホというデバイスへ、ITやWebなどのテクノロジーに新たな期待を持たなくなったということ。自分の求めている要件ができればよいと考え、これまでに暗黙的に持っていた技術の進化によって、自らの行動が変化するかも、という期待がなくなった。

もう1つは定番を求めた、変わらないことを求めたこと。環境の変化により、新しい刺激を受けることを望んでいない。それなのに、Appleを買ったのはなぜだろう?と考えた。

5.それでも、Appleを買ったのはなぜだろう?


ちなみに、新しいiPhoneのモデルが発売になって、即買したのは初めてである。Appleフリークではないから、即買する人たちのレビューを見て評価が安定してから、いつも買っていた。しかし、今回は即買。この自分の購買活動を考察してみると、AppleがiPhone SEを通じて、ユーザーへ届けたのが価値を驚きの体験(バグはあるかもしれないが、、、)ではなく、ニーズに寄り添う姿勢だったことを暗に感じ取ったから、なのではないか、だから即買したのではなかろうかと考えた。それは僕の中で、Appleというブランドへの自分の期待が刺激から定番としての信頼に変わったことを意味する。いつの間にか、Appleというブランド価値が自分の中で、生まれ変わっていた。

まとめよう。今回の買い替えは、3つの理由による。一つは長期的な月額費用の削減、一つはカメラ機能の故障による買い替え、もう一つはAppleへの信頼。いつの間にか、自分の中でのAppleへの価値観が変わっていたことに驚いた、それとともにそれは自分の価値観の変化でもあるように感じたこと。年齢を重ねるとはこういうことか、と悲しくもなっている。

(※記事中の金額は極めて不正確なので、参考程度にしてください)

[一年後]矛盾を編集する力 鈴木大拙 x 西田幾多郎

ちょうど、このトークイベントに参加してから1年が経過した。金沢への新幹線は無事開通し、観光客が急激に増えた。すでに10回以上、北陸新幹線を利用させてもらっている。新幹線以前はそれまでは小松空港を利用していたが、新幹線の便利さ快適さにはぐうの音も出ない。そして、鈴木大拙館に「両鏡相照」と題し、学習院大学で行われた特別展示の再現展が開催されており、足を運んだ。そして、一年前の書ききれなかった記事の存在を思い出した。

キーワード:明治三年、善、禅、金沢、二項同体、内村鑑三、清沢満之、契沖、本居宣長、三浦梅園、正・反・合(弁証法)、空・仮・中(天台止観)、山崎闇斎、湯川秀樹、老荘思想、間、編集、矛盾,往復書簡、無、うんとこどっこいしょ

 

 

 

明治三年


2人が生まれた年、この前後に明治維新、王政復古が起こったが、神仏分離、廃仏毀釈が2人の思想に影響を与えていく。それまでは日本は神仏習合であった。儒教も道教もキリスト教も、全宗教が同時に入ってきたにも関わらず、神仏分離をした。天皇制との関係があった、国家神道となったことである。

お雇い外国人によって列強のグローバリズムが持ち込まれ、ミル、ルソー、ダーウィンなどの考え方を受け入れた、それを日本の文化と融合できれば良かったが、なかなかうまく行かなかった。そこで、二つのZEN(善と禅)を少年時代から持ち込んでいた2人が金沢で育った。

金沢という場所


江戸の葵と京都の菊、両方をエディットした。京都からは伝統や文化やもてなしを、江戸には幕府があり、その家臣であった。その矛盾を編集する力が金沢にはあった。加賀の前田は一度も戦火に巻き込まれなかった、それは平和の思想以上にもっと凄いものが必要である。矛盾を編集し、壮絶な戦いを経てたどり着く平安がある、それは金沢が持つ特色であり、同じ金沢の四高で同じ先生に習った西田にも鈴木にもあった。

二項対立→二項同体


鈴木大拙や西田幾多郎に近い。西田と鈴木が日本の哲学を眺める最大の窓であり、2人がいることで立体化している。この2人の前に哲学者は日本にいたのか。そこで紹介されたのが、内村鑑三と清沢満之。二項同体を唱えた清沢満之。JAPANとJesusの間をまたぐことを決意した内村鑑三。

 

正・反・合(弁証法)→空・仮・中(天台止観)


天台止観は禅の根本にある。正反合と空仮中をあわせられないか、と試みたのが西田。有の哲学(同質性を求め、事故発見することをロゴスという)と無の哲学(関係性や自他の相対性、それが起こっている場)、この違いをどうにかしようとしていた。仏教ははじめ小乗仏教からはじまった、そこから大乗へ、大般若経、法華経、維摩経などをつくっていった。

 

その他


三浦梅園と編集、湯川秀樹、大拙と幾多郎を今の時代に適応させて考える、2人を乗り越えた先にあるもの、そのときに松岡正剛が関わったとされるアサヒ・スーパードライのコピー「コクがあるのにキレがある」、矛盾を包含したコピーに、そして、スパゲッティに日本的なタラコを加えて作った、たらこスパゲティなどに2人を乗り越えるヒントがあるのではないか、、、と。最後は駆け足で講演は終了。


同郷と越境


この講演会を尊敬する年上の友人から耳にしたとき、「西田幾多郎と鈴木大拙」と語り手としての松岡正剛、この三者の組み合わせにまったく違和感はなかった。まず、この講演会を企画・開催してくださった西田幾多郎哲学館と鈴木大拙館、会場である学習院大学の方々に感謝したい。まったくをもって関係者ではないのだけれども、郷土石川県の代表すべき知識人の2名を敬愛するものとして、哲学館及び大拙館を里帰りをしたときのルーティンにしているものとして、とても感慨深い。また、正剛先生には以前お仕事を依頼したことがあり、千夜千冊の読者としてもいつもお世話になっていているので、殊更言うまでもない。

事後ではあるが、断っておきたいことがある。それは同じ土地で育った人間から受ける影響について。海外で活躍する日本人のプロスポーツ選手やアーティストを応援するように、僕は世界や日本に誇れる実績を残した郷土の人を偏愛する。長い歴史から見れば、評価の定着は定まっていないと言えるが、少なくとも自分が生きている時代に同世代または数世代前の人の故郷から離れたところでの活躍には胸躍る。

それは、もっとローカルになれば、家族が国体に出たりだとか、同じ町内会のおじさんが町長になったり、同じ町内のお兄ちゃんが甲子園に出場したり、同じ市内の陶芸家が県民栄誉賞を取ったりと。自分が所属しているコミュニティを超えて、外で認められて活躍する人すべてにあたるのかもしれない。誠勝手ながら、そういった人に強く惹かれる。なんだろう、これはと思うこともあるが、そうなのだから仕方がない。だから、境界を超えて頑張っている人、すべてが好きなのかもしれない。ただし、その人との距離感で応援は嫉妬に変わることもあることは要注意だ。

そして、一年後


1年後に訪れた鈴木大拙館で振り返ったこの1年。個人的な悲哀と向き合い、乗り越えられたのは2人の存在のおかげである。夏には西田幾多郎哲学館で学ぶ機会もあった。とにかく2人の関係性に憧れ、その周辺をぐるぐるとしていたのだろう。

まだまだ、もやもや、ぐるぐる、言葉にできないことを言葉に、続く。

20110311から5年間

色々あったなぁと、夜から朝にかけて思う。誰にとっても5年間のストーリーがそれぞれあって、この日だからこそ鮮明に思い出すこともあるのだろうし、それには僕も例外ではなく、とてもアンニュイな気持ちになった。

覚悟だけで実際は空回りでなんにもできなかったなぁ、また再チャレンジだなぁ、というか当時はなんでもできると思っていたなぁ、つい人と比較しちゃうなぁ、自分ってなんだろうなぁ、できることからやっていこう、自分は自分だと、色々頭に浮かんでは消えては混乱する。

いつも同じところで、ぶれない自分のスタンスと専門を見出そうとスタックしていて、突破したいと、もがいている。

今日もそんな1日がはじまる。

dubとグレン・グールド

今週であった新しい音楽。

これまで、詩の共感性からばかり、聞く曲を選んでいたが、今回はどうやら違う。

正直、どちらもまったく素人の分野、ピアノもわからないし、もちろんDUBも。レゲエを聞き飽きるほど聞いていた大学時代が懐かしいが、リズムを体が覚えている以上、前者のDUBの方が有利だが、さてさて。

月と山

われわれが月を目指して、山を登る。月に到達するだろうと考えるのは妄想だ。山は果てしない。しかし、どこまで歩もうとも、月は常にわれわれと共にある。
鈴木大拙

月はときに雲に隠れる。いや、我々が月に雲をかけて見えなくさせているのであって、見なくなったと考えるのは傲慢だ。月は常にわれわれと共にある。見ようとするか、どうかだけが問われている。

手がかりになるのは、薄い月明かり。

四高の超然主義

石川四高記念文化交流館にはじめて足を踏み入れた。

迎えてくれたのは、「超然」。寮の一部が火事によって損害を受けた後に、生まれた。
高山樗牛の「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」を引用したとされる。

OBが超然主義について、あーがこーだ語っているVTRを見た。

「世間に波風に流されずに、超越したな視点で社会を見つめ、その中で公器として振る舞い、貢献する姿勢である」と解釈している。当時の高校生がその主義を自ら議論して、実践していたことに、まず時代の違いを感じる。若さのエネルギーを確実に社会のエネルギーに変えていた時代だった。私たちは若さのエネルギーを社会とは交わり難いこと(部活や受験勉強や遊び)に使っている時点で、ギャップが大きすぎる。もちろん、当時の人達も私達と同じようなところにエネルギーも使っていたはずだが、断然それよりも社会そのものに関心を持ち、行動していた。

圧倒されるほどに、エリートとしての自負と自信に漲っていた。

西田幾多郎、鈴木大拙、井上靖、谷口吉郎、中谷宇吉郎、正力松太郎、他錚々たる卒業生がいる。もちろん、超然の思想が四高に定着したのは、1906年以降とされるから、意識的に超然を持ち得たのはそれ以降の世代であろう。しかし、校風は過去の卒業生や先生が培ってきたものからにじみ出てきているはずである。そうやって、各人の業績を見ると、全体として「超然」としたものを感じるのは不思議な事ではないように思える。